紅茶の魔法
著者:水島ゆいり



職場の近くに小さな喫茶店ができたことを後輩から聞いた。紅茶を専門的に扱う店らしい。
 紅茶、という言葉の響きもさることながら、これには一つの想い出がある。
 それまでは(のど)が渇いた時に手に取る美味しい飲み物であった。潤っているうちは微塵(みじん)も頭に思い浮かばない代物だ。
 けれど大学で知り合った一人の女性によって、響きのある各個たるものとなった。
 少し目を閉じて記憶の引き出しを開ければいくらでも思い出が(よみがえ)りそうだ。
 あいにくと客は俺一人しかいない。
 夕日に染まるアンティーク調に統一された店内を存分に堪能(たんのう)していた。
「お待たせしました、こちらがメニューの一覧になります」
「どうも。…?」
 店員からメニュー表を受け取ると、それまで店の雰囲気に酔い思い出に浸っていた俺の心情は一気に狂い始めた。
 一つの可能性が俺を動揺(どうよう)させていた。
 クラスメイトだったその彼女は俺より七つ年上で、大人の色気といかないまでも他の女子よりは成熟した年上らしい雰囲気を持っていた。
 確か今年で二九か三十になる。
 カチューシャを付けていて、けど男の俺にはその利便性なんてわからないから”なんで子供でもないのにカチューシャ”と思いつつもそれを付けていた彼女はとても可愛らしくかった。全体的に首周りで短めに切られた髪でカチューシャによって上げられた前髪、それによって(あらわ)になっていたおでこ。可愛らしくも美人が似合う彼女に俺は恋をしていた。
 よく黒髪美人って言っていたっけ。
 カウンターの彼女が魅せるようにして壁面に飾られた棚から瓶を手に取りこちらに向き直ると、俺は慌てて視線をずらした。
 間違いなく彼女だ。
 それからどれくらい経ったか。ちらちらとカウンターを見た気がする。
 店内の雰囲気かまさに時間がゆっくりと流れているように感じられるが奇しくも気にはならなかった。
「お待たせしました。ご注文のメニューになります」
「あの…貴方ってもしかして…」
 それ以上は言葉にできなかった。
 彼女が口に指を当ててシーというサインをしたからだ。
「私はただの店員。貴方が名前を聞かなければまた会うこともできます」
 店員として一礼するとカウンターへと戻っていった。
 貴方が名前を聞かなければ?どういうことだろう。彼女の奇妙な言動に困惑する。
 俺は冷静に考えようと椅子を座りなおし出された紅茶を楽しむことにした。
 砂糖のないストレートティーの渋みが広がり深く息をついた。
 特別紅茶が好きということもない。彼女があったからこその興味。ストレートティーの渋みは楽しむ分には良いが、飲み物として何杯も飲むには少々俺には合わない。
 文化祭だったか、稀に見る彼女の可愛い言動をあの日は行事日だったから覚えている。
 校舎の最上階の一室が俺達のクラスの控え室になっており、クラスの出し物もひと段落し交代制の休憩を含めた自由時間でたまたま俺と彼女はその控え室で一緒になった。
 他に生徒もいなかったし凄いチャンスに感じて少しだけ積極的になったっけ。
 彼女は趣味である絵を描いていてそれを見ようとしたら、ギャグでもかというくらいにズサササと部屋の後ろまで逃げ隠れた。
 その姿を見た俺は大笑いし彼女は照れながらちくちくと怒っていた。
 今日まで思い出だったんだ。貴方は記憶の中の人。
 それが今目の前にいる。
 それから何杯か注文した。此処にいるために一杯一杯をゆっくりと口に運んだ。
 既に客としては不自然なくらい何時間も居座っている気がする。
 とうとう紅茶を飲むこともできなくなり時間も時間だ、俺は店を出ることにした。
 忘れてしまったのだろうか?俺のことを。

”私はただの店員。貴方が名前を聞かなければまた会うこともできます”

 いいや。そんなことはないはずだ。
 しかし…。
 勘定を済ませドアに手を掛ける。
 どうすることもできないじゃないか。
「有難う御座いましたー」
 また会えるだろうか。
 からん、と乾いた鈴の音が鳴る。
 ドアが閉まる瞬間に「またのご来店お待ちしております」と言いながらお辞儀をする彼女が見えた。
 わずかに鈴の音を残すと、雑音が俺を現実に引き戻した。人の歩く音、車の走る音。時間の流れが違っていたように感じられる。夕方の帰宅ラッシュは先程までの喫茶店と打って変わって忙しない。
 入学してから二年後の卒業式。声を掛けることはできても告白できずただのクラスメイトとして終わってしまった。
 それでも俺は彼女のことが好きで忘れられず、相応しい男になろうと、大人になろうと必死だった。
(今ここで行動を起こさないとまた前の二の舞じゃないのか?)
 再び乾いた音を鳴らした。
 彼女に会ってどうするか算段もたたぬまま俺は店に入りなおす。
「いらっしゃいませ。…あら?お忘れ物ですか?」
「いえ…、

  ―ちゃんだよね? 」

………

……



 紅茶というものは酷く神秘的である。
 俺は神秘的なその力によって幻想を見せられていた。
 いや、あるいは魔法だったのかもしれない。俺と彼女を引き合わせ、それを繋ぎとめるための条件が彼女の言ったことだったんだ。
 夕日が久しく感じられる。ずっと見ていたはずなのに。
 夢ではない。温かみのある香りがまだ口の中に残っている。最近は飲んでいなかったカップでの味。
 告白は愚か名前すら確かめれなかった自分に深いため息ばかりが募る。
 しかし名前を聞く必要はあったのだろうか?間違いなくあれは彼女だった。
 けれど……確かめられずにはいられなかったんだ。彼女であってほしい、見間違いなんかではないと。
「はー…」
 俺はスーツのポケットを探った。二年間ずっと定期入れに挟んでいた紙切れを取り出す。
 そこには彼女の字でローマ字が(つづ)られていた。
 二年も経っていれば繋がらないかもしれないが。
「連絡してみるかなー…」
 ようやく進んだ。それでどう転ぼうと俺は新しい道に進むことができる気がする。
 一つの期待を胸に俺は二年間(とら)われ続けていた道を後にした。